中井スクリーン有限会社は、業界の中心的存在として、長い歴史を持っています。
創業者の中井憲生は、1935年、栃木県足利市に生まれ、1955年、横浜で仕事を始め、中井スクリーン有限会社を1957年に創業しました。青年時代に、伝統的な友禅染め職人の父より技術を習得しています。友禅は紙を切った型紙を使いますが、型紙を、絹の型に張り付けるという技術が、伝統的なシルクスクリーンの印刷に適応されたのです。
横浜に移り、中井スクリーンを創設してからの数年間、憲生の主要なツールは鋭利な刀(小刀)でした。後年になっても、彼の能力は衰えることなく、10枚の重なった紙を、寸分ずれることなく、正確に切っていました。憲生が言っていたように、この正確なカッティングの技術が、迅速かつ高度な仕事を完成させていたのです。
当時、スクリーン枠は木枠で、枠にシルク生地をピンと張らせて固定させていました。1960年頃、木枠からアルミ枠に変わりました。彼は、フィルムと型製版に於ける革新的な写真技術を開発し、工程の速度を上げることに成功した草分けです。会社は成長し、1975年には伊勢市内に2つ目の工場ができました。彼は、道具入れの中に詰まった丸ペン、エアブラシ、小刀、研ぎ石などの道具を相棒に、たばこの吸い殻を灰皿に溢れさせながら、来る日も来る日も仕事に打ち込みました。
彼は発明家でもありました。娘のまゆみは、「布地にグラデーションのシルクプリントを可能にする技法を開発した父親が何日も暗い部屋に籠って、食事にも出てこなかった」と述懐します。「だから、部屋の外に食事をおばあちゃんが置いておくのですが、父はササっと食べて、空になった茶碗を部屋の外に戻していました」。
生涯を通し、新しい技術とそのノウハウを他の企業にも伝え続けました。生前、彼は「横浜のスクリーンプリントの技術が上がったら、横浜の業界全体が盛り上げるだろうと考えていた。実際、その通りになって、全員にその恩恵は渡ったと思う」と言っていました。
家族との時間も大切にしていましたし、仕事仲間との交流も頻繁に行っていました。特にゴルフを好み、彼自身も素晴らしいゴルファーでした。ゴルフの会でも何度も優勝し、亡くなる前年、81歳でホールインワンをし喜ぶと同時に 「人生も終わりかな。」とぽろりとつぶやいていました。2016年10月、突然亡くなった時は、誰もが深く悲しみました。
憲生の長女、まゆみは2016年の終わりに中井スクリーンを継ぎました。すでに木枠を使っている頃から稼業の手伝いをし、二十歳の時には正社員として働いていました。憲生は彼女にトレス職人として、厳しく指導していました。時を経て、彼女はデジタルテクノロジーを含む、ビジネスのあらゆる側面を理解し、習得するようになっていました。40年以上の経験から、彼女は繊維業界のさまざまな変化を見ています。そして、「父の後を継ぐのはとても大変なこと」と言います。
「父は特別でパワフルな人でした。誰もが父のことを敬愛し、父の意見を尊重していました。父は私のこともよく指導してくれました。私が決断するどのようなことも、父から教わったことが基盤にあり、父の魂を受け継いでいるものであることを、周囲の皆さんに見てもらえたらと願っています」
現在業界は、憲生が経営をしていた頃よりも難しい局面を迎えています。父親と同じく、彼女もいつもイノベーションについて考え、新しい技術を開発するためにどうするのがいいのか、競争の厳しい業界で生き残る方法を模索しています。また、会社を継いだことで、男性中心の繊維業界の中で、いかに女性が社長職として活躍することが大変かも実感しています。それだけに「若い女性たちが私の意見を求めてくれることが嬉しい」と言います。